相馬市に「丹下左膳の碑」が立つ新潟の作家 フォトギャラリー
3つのペンネームを使い分けた作家・長谷川海太郎
作家・長谷川海太郎を知っていますか?
実に魅力的というか、不思議な作家です。
文学に詳しい人物なら、長谷川四郎の長兄として知っている人がいるかもしれません。
「丹下左膳」を書いた作家だと言われれれば、少しはわかるのではないでしょうか。
とはいえ、丹下左膳の著者は長谷川海太郎ではありません。彼の筆名・林不忘です。
しかも、彼は「メリケンジャップ商売往来」「テキサス無宿」などの海外ものは谷譲次
名。新聞連載後、映画化されて大ヒットした家庭小説「この太陽」「新しき天」などは牧
逸馬名という具合に、一人で三つのペンネームで知られる大正末期から昭和初期を代表す
る流行作家でした。
1900年(明治33年)に新潟・佐渡で生まれた海太郎は、函館新聞社の社長をして
いた父親の仕事の関係で、幼少期を函館で過ごしました。
北海道立函館中学校(現・函館中部高等学校)3年のとき、ストライキの首謀者として
放校処分を受けて中退、1920年、二十歳で渡米。各地を放浪後、1924年に帰国。
翌1925年、彼は谷譲次、牧逸馬、林不忘のペンネームを使い分け、旺盛なる文筆活
動をスタートしました。
菊池寛、直木三十五、芥川龍之介などが活躍した時代に、日本でもっとも売れっ子の作
家が、一人三役の長谷川海太郎でした。その稼ぎっぷりの一端を物語るのが、日本で初め
て運転手付きのアメリカ車に乗っていたというエピソードです。
米国から帰国後、アッと言う間に流行作家になった彼ですが、やがて鎌倉・雪の下に人
気作家に相応しい御殿を建設。新築なった1935年(昭和10年)6月、脳溢血のため
35年の生涯を閉じました。作家として、活躍したのは、わずか10年間です。
亡くなった当時、連載中の雑誌が9誌、新聞が1紙と10本の連載を抱えていたという
超売れっ子の突然の死です。
3つの筆名を持っていた有名作家は、その死後、本名の長谷川海太郎として語られるこ
とになり、いわば無名の作家になったわけです。
文壇とのつきあいを廃して、ひたすら小説を書きまくった彼の一般的な認識が、どのよ
うなものか、参考までに1978年(昭和43年)に出版された『日本文学小辞典』(新
潮社)を開いてみました。
そこには弟・長谷川四郎は掲載されていても、長谷川海太郎の名はありません。実際に
は、3つのペンネームの一つ、牧逸馬名で出てきます。同時に、丹下左膳に関して「大衆
文学の歴史における足跡は大きい」と書いてますが、とても一人三人の活躍をした人気作
家の本質、ましてや価値を伝えるものにはなっておりません。
長谷川海太郎の現代的価値をクローズアップした評伝・室謙二著「踊る地平線」(晶文
社)が出版されたのは、死後50年後の1985年1月です。
彼の先見性について、例えば片目、片腕という丹下左膳を日本の大衆文化に特有の森の
石松、座頭市などに共通する身体障害者のヒーローだと指摘しています。
あるいは、1928年に中央公論社特派員として、妻を同伴し約3カ月のヨーロッパの
旅に出ている彼は、日本の外に目を向ける機会があったためか、日本人作家が誰もテーマ
にしなかった初代首相・伊藤博文を暗殺した韓国人テロリストを主人公にした戯曲「安重
根」を書き、ロシア革命後のトロツキー亡命をテーマにした作品「大陸」(未完)を書い
ています。
やり残した仕事を想像するとき、超売れっ子作家の早過ぎる死は、何とも残念としか言
いようがありません。
掲載写真について
生前の活躍とは一転、正当な評価とは無縁な作家の実像は、ほとんど満足な形で残って
はおりません。
生家に近い佐渡・赤泊港の「赤泊総合文化会館」にある「郷土資料館」に「長谷川海太
郎コーナー」があり、寄贈された生原稿など、一連の資料が展示されている程度です。
母校「函館中部高等学校」にも、長谷川家の墓がある鎌倉の妙本寺にも、特別な何かが
あるわけではありません。
そんな中で、異色なのが福島県相馬市の岩ノ子海岸に立つ「丹下左膳の碑」です。
小説の中で左膳が相馬藩の殿様の命を受けてとあるためのようです。歴史上のモデルも
いないのに、巨大な記念碑ができるあたりに、ケタ外れのヒーローらしさがあるのかと思
いましたが、建立の時期は1989年、平成元年のことです。
地域起こしブームの一環かもしれませんが、ちょっと不思議な展開です。
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