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レストラン「じゅらく」グループ 創業100周年!? フォトギャラリー 「なぜ、出身地・新潟では、話題にならないのか」を、考えてみた

更新日:8月21日

レストラン「じゅらく」グループ 創業100周年!? フォトギャラリー  「なぜ、出身地・新潟では、話題にならないのか」を、考えてみた



 世の中は、聞いて見て調べてみないとわからないことだらけです。  ジャーナリストの役割もそのへんにあるわけですが、聞いても調べてもわからないこと もあります。人生同様、100年企業ともなれば、なおさらです。 「株式会社聚楽」(加藤治社長)は、2024年「創業100年」を迎えました。  そのジュラクグループの創業者が新潟県出身で、2024年に創業100年を迎えるこ とを知ったのは、2月4日のこと。上京の折りに宿泊したお茶の水「ホテルジュラク」に

置いてあったPR誌「ことのは」20号と21号を読んだためです。  たまたま耳にした新潟のBSNラジオで近藤丈靖アナも「じゅらくが100年!」の事 実を、知らなかったと語っていたぐらいで、なぜか新潟県出身者及び企業が定期的に登場 する地方紙「新潟日報」でも、印象に残る記事の記憶がありません。  新潟の著名人が登場する「新潟県が生んだ100人」と表紙にある『ふるさと人物小事 典』にも、創業者の名前は見当たりません。ちょっと不思議です。  しかし、新潟県出身者だとわかってみれば、新潟駅の近くには「じゅらく通り」があっ て、ホテル「ジュラクステイ新潟」などがあります。1958年4月には、弥彦観光ロー プウェー(現・弥彦山ロープウェー)を開業。レジャー業界にも参入しています。  創業者の加藤清二郎氏は現社長の祖父で、1898年(明治31年)に新潟県中蒲原郡 白根町(現・新潟市南区)で、裕福な材木商の次男に生まれました。  彼は、当時の実業家・安田善次郎の「学問よりも実地が大切だ」との言葉に感銘を受け て、高等小学校卒業後、自ら丁稚奉公に出て、その後、兵役を終えると、母親から借りた 資金で相場の世界にのめり込んで、大儲けしました。  しかし、あぶく銭は身につきません。株価の暴落で借金を背負い、今度は樺太に渡って 地道に鉄道建設に従事したのですが、稼いだ金を再び相場で失ってしまいました。  二度にわたる大失態に、ついに堅実な商売で身を立てようと決意したのが26歳。関東 大震災の1年後の大正13年(1924年)、東京・神田に簡易洋食の「須田町食堂」を 開業しました。  時代の荒波に揺られながらも、須田町食堂チェーンを展開。やがて、レストラン・レジ ャー・ホテルと業態を拡大し、変化を続けてきたのが、100年の歴史です。  それはそのまま、今日、隆盛を極める日本の外食産業の先駆けです。  上野の聚落台、新宿じゅらくエイト、渋谷のスペイン料理店「びいどろ」など、昭和の 人間には、実に身近な存在でした。1956年にはみなかみホテルジュラク、その後、飯 坂、伊東、万座などのリゾートホテル事業にも本格的に参入しています。  ちなみに「聚楽」の社名は須田町食堂創業10周年を迎えるにあたり、新店の名称を従 業員700名から公募により、決まったとのことです。聚楽とは「人々が集まって楽しむ こと」の意味と「ことのは」にはあります。  そんなジュラクグループの本社は、お茶の水の「ホテル龍名館本店」ビル9階にありま す。同じグループの高級路線かと思っていたところ、そうではありませんでした。9階を 借りているだけで、この20年で4回ほど本社を移転しているとのことです。  何とも意外ですが、浮き沈みの激しい外食産業の厳しさを象徴するエピソードというこ とでしょうか。  ちなみに「浅草花やしき」は1939年(昭和14年)の開業の記録があるだけで、未 確認ながら戦時下、1944年に撤退したとの情報が寄せられているということです。



 掲載写真について  まずは「先祖供養のため」創業者のお墓参りでもしてから、同グループの100年を紹 介しようとしたところ2024年2月発行の『聚楽百年史』も、写真中心のカタログのよ うな作りで、葬儀やお墓などの記述はありません。  本社に尋ねても「個人情報保護法」を理由に、先祖供養は丁重に断られました。  そのため「食」を考える上で、後世に大きな影響を及ぼした江戸時代中期の易学の大家 である水野南北の墓を、代わりにお参りすることにしました。 観相師・水野南北は、人の運命を左右する決め手は「食にある」と悟って、自ら食を慎 み(慎食)、観相学の集大成となる著作で、その実践・思想を語って、その後の食養学に 影響を与えています。  その教えは、20世紀、欧米の食と健康に影響を与えた現代マクロビオティックにも通 じていることから、兵庫県尼崎市・武庫之荘「法輪寺」にある墓・不動明王の石像を掲載 することにしました。像は水野南北をモデルにしています。  店名「聚楽」のヒントになったと思われる豊臣秀吉の邸宅・聚楽第は、もともと京都大 原にあったものですが、いまはその一部(飛雲閣)が西本願寺に移転されています。

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