オリンピックを目指した第一次ダーツブーム 作家・波止蜂弥(はやみはちや)
公私混同の協会運営とJPDO立ち上げの顛末!?
ダーツをオリンピックの新種目に!
オリンピック競技に集約されるスポーツやゲームは、アマチュア競技として始まって、人気が出るに従ってプロの団体が生まれ、やがてコマーシャリズムに乗って世界に広がっていく。
サッカーのワールドカップやゴルフのマスターズなどの一般的な歩みである。
近年はスケードボードやサーフィンなどがオリンピック種目になり、パリ・オリンピックではブレイキンが新たに加わっている。
本来であれば、そこにダーツが入っていても、何ら不思議ではない。今後、入る可能性がないわけではないが、オリンピックをもっとも意識したのが、実はダーツに人生を賭けた小山統太郎氏(JPDO会長)であった。
ダーツは、その発祥から酒と一緒に楽しむという面もあるため、欧米人と比べてアルコールに弱い日本人の場合は、ついハメを外すこともある。
紳士のゲーム・スポーツが酒場のいさかい程度ならまだしも、ハード(スティール)ダーツの場合、矢がダーツボードのワイヤーにぶつかって、跳ね返ってきたり、誤って人に当たるといった事故が、実際に起きている。
ダーツがブームになる中、「ダーツをオリンピックに」との声が上がったかと思うと、やがて危険な側面がクローズアップされたりして、後に文部省公認の動きが形になっても思い通りの展開とはなっていかない。
そんな難しさもあってか、池袋「モモンガ」の二木和美氏から借りた資料の中には、日本ダーツ協会からの「脱退届け」(下書き)が挟まっていた。律儀な二木氏は、小山氏同様、当時のダーツ業界の実情に、ついていけないと思ったのではないか。
1984年、小山氏がプロのスティールダーツ競技団体JPDOを立ち上げた当時、日本のダーツ界はアマとプロ、個人と団体という問題が社会問題になってきた時期であり、マイナーなイメージを脱却できずに、伸び悩んでいた時期だったという。
世界のダーツを視野に、彼は1987年を「ダーツ元年」と見据えて、日本のダーツ界の刷新に挑んでいったわけである。クリスタルオープンをニューオータニで開催するなどある程度の成功を収めている。
日本ダーツ協会の発足
日本で最初の正統派ダーツの本とされるアイヴァン・ブラッキン氏とウイリアム・フィッツジェラルド氏の共著『英国流ダーツの本』には、草創期の日本のダーツについては、ほとんど詳しいいきさつは書かれていない。
「日本では1976年の5月に日本ダーツ連盟の準備委員会が発足し、これをもって日本最初の中立的な立場にある、ダーツプレイヤー自身のための連盟へ第一歩を踏み出した」と書いてあるが、すでに1970年1月には日本ダーツ連盟とは別に、現在のJDA(公益社団法人「日本ダーツ協会」)の前身である日本ダーツ協会がスタートしている。
元日本代表のレジェンド・小熊恒久氏が、先輩の青柳保之氏(青柳運輸社長)に誘われて、六本木でダーツを始めたのも、1970年前後のことである。99%が日本駐在の外交官、在留外国人チームの中で、初めての日本人チームとして参加、パブでリーグ戦を行っていた。
周りがすべて外人チームの中で“日本人代表”を意識したわけではないだろうが、真面目にリーグ戦に立ち向かう日本人チームは、若くて強すぎたせいもあってか「君たちは真面目すぎる!」と、コミュニケーションを楽しむ外国人に、よく文句を言われたという。
日本ダーツ協会は1970年4月には、第一回日本選手権を東京・芝パークホテルで開催。スポーツ団体として、正式に競技会活動を開始。後に発展的に解消する形で、1989年8月、文部大臣の認可を得て「社団法人・日本ダーツ協会」が発足。2014年4月より、公益社団法人として、今日に至っている。
ブラッキン氏の記述にあるダーツ連盟は、後に合流する形で、日本ダーツ協会の歩みの中で、1977年、青山の英国トレードセンターで開催された第1回ジャパン・ダーツ・オープンが紹介されている。
男女ペアのダーツウォッチなど
どんな組織や団体も、スタート時には、様々なグループや勢力が登場して混乱する。そうした中から、プロの組織・団体としての体裁が整っていく。
日本ダーツ協会も例外ではなく、ダーツがブームになる中で、パブのリーグ戦が盛んになり、立派な機関紙「ダーツマガジン」が登場した他、スポンサー、ビジネス絡みの様々なダーツ関連グッズがつくられたという。
日本ダーツ協会公認のオリジナルダーツボードをはじめ、人気プロのダーツセット、スポンサーであるシチズンとタイアップした男女ペアのダーツウォッチなど、次々と企画されていた。
もっとも、そこに将来的なビジョンがあるわけではなく、協会の会費と家計の公私混同ぶりもあり、このままでは日本のダーツに未来はないと、小山統太郎氏が新たに立ち上げたのが、JPDOであった。
小山氏は日本ダーツ協会の理事の一人であり、二木氏も参事の一人であった。それが前号で触れたブラッキン氏の指摘する“クーデター”というわけである。
ちなみに、同時にJPDOにも参加した青柳氏は、年は若くても、いわば日本人のまとめ役であり、JPDOの組織表にはソーシャルセクレタリーとして青柳氏の名前もある。
ただ、若かったこともあり、小山氏がどんなことをやっていたのか、組織運営面はあまりわからなかったという。
とはいえ、他の人間は自然に移行する形でJPDOに参加していたのに対して、唯一、青柳氏は「除名」とされた。それだけ影響力が大きかったための、見せしめないしは腹いせのようなものか。名誉の除名というわけである。
ダーツをビジネスにしない
日本のダーツ草創期、よくある大人たちの騒動を横目に、レジェンド・小熊氏は大学卒業後も、大学院に通いながら父親のコンサル会社の仕事を手伝っていた。
当時は学生運動が盛んな時代だったが、筆者と同様、ノンポリ派の彼は、勉強の傍ら、与えられた仕事をこなしていれば、後は何をしても文句は言われない。そんな境遇もあって、暇があればダーツの練習をして、青柳先輩から声がかかれば六本木に出かけていた。
ダーツの日本代表時代は、世界中に出かけて、日本の各地の試合にも出ていた。
そんな小熊氏であるが、それでも彼は必要な金は自分で稼いで、ダーツを商売にはしていなかったと語る。もちろん、ダーツの本やDVDなどを出していたので、多い月は黙っていても、印税など10万円が入ってきた。
それはあくまで余祿のようなもので、ダーツをビジネスにしないのも、彼は「遊びの分野で人に頭を下げるのが嫌だった」と、彼なりの美学を持っていたためだ。スポンサーがつけば、お金の絡むことだから、当然、頭を下げることもある。好き勝手なこともできなくなる。
幸せなダーツ草創期を生きてきたのは、2年先輩の青柳氏を見てきたせいでもある。
青柳氏は大学卒業後、特に就職をすることなく、家業である青柳運輸を手伝いながら、実際には学生時代のつながりもあって、六本木通いが日課となっていたようだ。
運送業は鉄道と並んで、当時から日本の産業の足であった。青柳運輸社長と同時に、東京都トラック協会・文京支部の相談役を続けているのも、ダーツで築いた全国の人脈が大きな財産になっているためである。
その昔、宅配便業界を取材したとき、筆者が驚いたのは、日本トラック協会の知られざる影響力であった。対応してくれた広報部長はどこかの通信社か新聞社から来ていて、若い駆け出し記者の筆者に、運輸業界の動きとともに、政界をはじめ実業界の様々な仕組みと裏の動きなどを教えてくれた。
筆者が青柳氏に親近感を覚えるのも、そんなトラック協会のつながりがあってのことでもある。
鶯谷の「よーかんちゃん」
2024年12月、暮れも押し詰まったある週末、東京・巣鴨で小熊氏を交えて3人で会食した。表向きのテーマは、もちろんダーツのことだが、結局は忘年会のようになる。
だが、そんなつきあいの中から、相手の意外な横顔が見えてくるのは、ありがたいことである。
夕方に会って、90分制の人気店で白ワインを飲んだ後、まだ早いこともあり、生前、中村勘三郎がよく通っていたという鶯谷のスナック「よーかんちゃん」に出かけた。
その店は、店主が40歳で始めたものだが、その昔は「宮田よーかん」の芸名で、松鶴家千とせと漫才コンビを組んでいた、名残の店名である。現役当時、テレビなどで見ていたはずである。
コンビ解散後、相方のほうはアフロヘアにサングラスをかけ「わかるかなあ、わっかんねえだろうなぁ」とのフレーズでブレークしていた。
店のママが青柳社長を「文京のお坊っちゃま」と言っていた。そこそこの先祖がいて、ダーツと運送業手伝いの傍ら、芸能界にも縁があって、脚本・構成などを器用にこなしていたとか。意外にも、筆者と近い世界で仕事をしていたわけである。
しかも、筆者の出身地である新潟にも縁がある。六本木とダーツそして、今につながるわけである。
勘三郎の他、SMAPなど有名人が通う不思議な店で、その日も隣の予約席には、GMOインターネットグループの副社長CFOが、部下2人を連れて現れた。
名刺を見れば、どこかで見たような気がしたのも、当然である。サイケデリックな照明とインテリアに驚かされる店に、どういうきっかけで来るようになったのかは聞いていないが、大企業で出世をする人物の多くは、ビジネスとは無縁のように思える意外な趣味や才能の持ち主である。
新宿ゴールデン街
似たような時代に、お坊っちゃま大学を卒業した筆者は、相変わらずダーツとはすれ違ったまま、初めてできた恋人と別れて、失意の日々を送っていた。
仕事以外では思い出の六本木には行かずに、新宿ゴールデン街に入り浸っていた。
4000万円のエメラルドの指輪を贈られて、もうすぐ籍を入れるというある日、最後のデートに思い出多い鎌倉を訪ねた。
夕方、家とは逆の方向の列車に乗ったのは、そのまま駆け落ちでもすればとの気分だったのかもしれない。
やがて、東京とは逆の方向に向かっていることに気がついた彼女は、静かに涙を流していた。傷心の彼女をなだめながら、列車を乗り換え、彼女を駅まで送った。それが最後の別れになるはずであった。
だが、運命は二人を引き裂くことはなかった。
仕事帰り、ゴールデン街に行くには早い夕暮れどき、ふと恋人の面影を求めて、彼女の日本舞踊の稽古場がある駅に降りた。
駅前に出ると、ちょうど来た吉祥寺行きのバスに乗ると、さほど混んでない車内に彼女が座っていた。まるで、待ち合わせていたかのように、自然に彼女の隣に座った。
お互い一瞬の笑顔の後、彼女は「運命なのね」と口にした。
*
再び六本木に、楽しく通えるようになったのは、最初の恋人に似ているかはさておき、新たな恋人ができたためである。
そこは今は亡き俳優・松田優作がよく顔を出していた有名人御用達のロマニシェスカフェである。
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